「父が亡くなったけれど、母は認知症で話し合いができない」
いま、そのような状況に直面している方もいらっしゃるのではないでしょうか。
家族で決めて、母の代わりに署名や押印をしておけばいい——そう考えたくなるお気持ちも、よくわかります。
私は介護福祉士として15年以上、介護の現場でご利用者やご家族と接してきました。
先に、いちばん大事なことをお伝えします。
判断能力がない方が参加した遺産分割協議は、法律上「無効」になります。
よかれと思って代わりに署名や押印をしても、その協議は後からやり直しになる可能性があります。
では、どうすればいいのか。
答えは成年後見の申立てです。
ただしこの手続きには、あまり知られていない落とし穴があります。
この記事では、手続きの流れと、その落とし穴、そして2026年に成立した民法改正で何が変わるのかまでをお伝えします。
相続人が認知症のとき、遺産分割協議はどうなるか

まず、判断能力がない方が参加した遺産分割協議は、なぜ法律上「無効」になるのかを整理します。
遺産分割協議は、法律行為です。
誰がどの財産を相続するかを、相続人全員の合意で決める契約のようなものだと考えてください。
そして民法には、こう定められています。
法律行為の当事者が意思表示をした時に意思能力を有しなかったときは、その法律行為は、無効とする。 (民法第3条の2)
つまり、協議の内容を理解して判断する力がない状態で参加しても、その合意は成立しないということです。
ただし、ここで大切なのは、認知症の診断があること=ただちに無効ではないという点です。
認知症といっても程度には幅があります。
協議の内容を理解して判断できる状態であれば、その協議は有効に成立します。問題になるのは、その判断ができない状態のときです。
「家族だけで決めて、あとで印鑑を」は通用しない
ここでやってしまいがちなのが、以下のようなパターンです。
「母は施設にいて話ができないので、家族で話し合って決めた」
お気持ちはよくわかります。ただ、この方法には2つの問題があります。
ひとつめは、その協議書が無効になる可能性があること。
ふたつめは、金融機関や法務局の手続きで止まること。
預金の解約や不動産の名義変更では相続人全員の意思確認が求められるため、実際には手続きが進みません。
なお、認知症で銀行口座が凍結されたときの対応については、別の記事で詳しく解説しています。
データで見る|成年後見の申立ての4件に1件は相続手続が理由
「相続人に認知症の人がいるなんて、うちだけだろうか」
そう感じているかもしれませんが、決して珍しいケースではありません。
最高裁判所が公表している令和7年の統計を見てみましょう。
成年後見の申立ての動機として挙げられたもののうち——
- 預貯金等の管理・解約……39,871件(93.4%)
- 身上保護……31,655件(74.2%)
- 介護保険契約……19,502件(45.7%)
- 不動産の処分……15,502件(36.3%)
- 相続手続……10,909件(25.6%)
申立ての約4件に1件が、相続手続を理由のひとつに挙げています。
つまり、相続をきっかけに成年後見制度を使い始める方が、毎年1万件以上いるということです。
※割合は終局事件の総数42,674件を母体としたものです。ひとつの申立てで複数の動機が挙げられることがあるため、合計は100%を超えます。
また、集計の対象が異なるため、この記事に出てくる他の統計とは母数が変わります。
成年後見の申立て|相続の手続きを進める3ステップ

遺産分割協議を有効に成立させるまでには、3つのステップがあります。
そして3つめが、冒頭でお伝えした「あまり知られていない落とし穴」です。
①家庭裁判所に後見開始の申立てをする
本人の住所地を管轄する家庭裁判所に申し立てます。
申立てができるのは本人、配偶者、四親等内の親族などです。
診断書や戸籍、財産の資料などを準備する必要があります。
申立てをしてから結果が出るまでの期間の目安は、2か月〜4か月です。
令和7年の統計では、2か月以内に終わったものが71.1%、4か月以内が93.8%でした。
診断書の取得や戸籍の収集など、申立てにたどり着くまでの準備期間は別に必要になります。
②選ばれた成年後見人が、本人を代表して協議に参加する
後見が開始すると、家庭裁判所が成年後見人を選びます。
後見人は、被後見人の財産を管理し、かつ、その財産に関する法律行為について被後見人を代表する。 (民法第859条第1項)
家庭裁判所から選ばれた後見人が、本人に代わって遺産分割協議に加わります。
ここでようやく、協議を有効に成立させられる状態になります。
③後見人自身も相続人なら、さらに「特別代理人」が必要
ここが、いちばん見落とされやすいところです。
例えばお父様が亡くなり、認知症のお母様の後見人に長男が選ばれたとします。
このとき長男とお母様は、同じ遺産を分け合う立場です。
長男が自分の取り分を増やせば、お母様の取り分は減ります。これを利益相反といいます。
民法は、このような場合に第三者を立てることを求めています。
第826条の規定は、後見人について準用する。ただし、後見監督人がある場合は、この限りでない。 (民法第860条)
準用元の第826条は、利益が相反する行為について特別代理人の選任を家庭裁判所に請求しなければならないと定めています。
つまり、後見人とは別に、その協議だけのための代理人を立てる必要があるのです。
ただし条文には「後見監督人がある場合は、この限りでない」というただし書きがあります。
監督人がいれば、その方が本人を代表するため特別代理人は不要です。
ここで注意したいのが、監督人が選任されるケースは多くないという点です。
令和7年に後見・保佐・補助の開始が認められた39,860件のうち、監督人が選任されたのは1,375件で、全体の約3.4%にとどまります。
監督人がいないケースのほうが多いため、後見人が相続人であれば特別代理人の選任がもう一段必要になる場面は少なくありません。
申立ての手間も期間も、その分だけ増えます。
なお、後見人にかかる費用や成年後見制度の全体像については、それぞれ別の記事で詳しく解説しています。
相続税の申告期限は10か月|時間との勝負になります

ここまで読んでみて、遺産分割協議を有効に成立させるには「思ったより時間がかかる」と感じられたのではないでしょうか。
まず前提として、相続税の申告が必要になるのは、遺産の総額が基礎控除額を超える場合です。
基礎控除額は「3,000万円+600万円×法定相続人の数」で計算します。この範囲内であれば、申告は不要です。
そのうえで、申告が必要なご家庭の話をします。
相続税の申告期限は、国税庁の案内によると「被相続人が死亡したことを知った日の翌日から10か月以内」です。
後見の申立てに2〜4か月、特別代理人が必要ならさらに時間がかかります。
気づくのが遅れると、あっという間に期限が近づきます。
間に合わないとどうなるか
申告期限までに遺産分割が終わっていない場合は、法定相続分で取得したものとして計算し、いったん申告と納税をすることになります。
このとき問題になるのが、次の2つの特例が使えないことです。
- 小規模宅地等についての相続税の課税価格の計算の特例
- 配偶者の税額の軽減の特例
どちらも税額を大きく下げられる制度なので、影響は小さくありません。
ただし救済措置があります。
当初の申告のときに、相続税の申告書へ「申告期限後3年以内の分割見込書」を添付して提出しておけば、申告期限から3年以内に分割ができたときに、更正の請求によって特例の適用を受けられます。
ここが落とし穴です。
この見込書を出し忘れると、3年以内に分割できても特例は使えません。
税理士に依頼していれば通常は対応してもらえますが、ご自身で申告される場合は特にご注意ください。
それでも、いったん多めに納税する必要がある点は変わりません。
「動き出しは早いほうがいい」というのが結論です。
相続の問題はここから|後見は相続が終わっても続きます
そして、重要なのが「遺産分割のために始めた成年後見は、遺産分割が終わっても続く」ということです。
判断能力が回復しない限り、制度は本人が亡くなるまで続きます。
専門家が後見人になっていれば、報酬もその間ずっと発生します。
「相続の手続きさえ終われば終了」ではありません。
これは、法務省が現行制度の課題として資料にも明記しています。
利用動機(例えば遺産分割)と比べて自己決定が必要以上に制限される
(例えば遺産分割)——国が制度の問題点を説明するときに例として挙げたのが、まさにこの場面になります。
2026年の民法改正でどう変わるか
しかし、ここで朗報があります。
「遺産分割が終わっても、後見だけが続いてしまう」
この状況を見直す法律が、すでに成立しています。
2026年6月17日、成年後見制度と遺言制度を見直す民法改正が成立し、6月24日に公布されました(令和8年法律第45号)。
この改正で、遺産分割に関係する部分は次のように変わります。
- 後見・保佐の制度を廃止し、「補助」の制度に一元化する
- 本人にとって必要な範囲・必要な期間での利用を可能にする
- 制度利用の必要がなくなったと家庭裁判所が認めるときは、判断能力が回復していなくても終了できるようにする
そして法務省の資料には、新しい仕組みの説明としてこう書かれています。
補助人に代理権(例えば遺産分割の代理権)を付与する審判
ここでも例に挙がっているのは遺産分割です。
遺産分割のためだけに、必要な期間だけ使うことができる、ということです。
ただし、施行はまだ先です
ここを誤解しないでください。この改正は、まだ施行されていません。
成年後見制度に関する部分の施行は、公布から2年6か月以内。つまり遅くとも2028年12月24日までに始まります。
いま相続が起きているなら、動くのは現行制度です。改正を待って手続きを止めることはできません。
介護の現場から伝えたいこと

私は介護福祉士として介護現場で15年以上、そして今は介護タクシーの事業者として、ご自宅と病院、施設を行き来しています。
その15年で、いちばん強く感じてきたことがあります。
「制度は、知っている人にしか使えないつくりになっている」ということです。
遺産分割協議に判断能力が必要なことも、後見人が相続人だと特別代理人が要ることも、自分で調べなければ誰も教えてくれません。
多くの場合、手続きが止まって初めて知ることになります。
この状況は、ご家族が悪いのではありません。
制度が複雑で、「知らなければ動けない」つくりになっているのです。
そしてもうひとつ。
この問題の多くは、親が元気なうちに手を打っておけば起きなかったということです。
「誰に何を任せたいのか」「財産がどこにあるのか」それを本人の言葉で残しておけるのは、判断能力があるうちだけです。
まとめ|相続人が認知症のときに知っておきたいこと
最後に、この記事の要点をリスクと備えに分けて整理します。
【放置すると起こること】
- 判断能力がない方が参加した遺産分割協議は、法律上は無効になる
- 家族が代わりに署名や押印をしても、金融機関や法務局の手続きで止まる
- 手続きを進めるには成年後見の申立てが必要で、2〜4か月かかる
- 後見人自身も相続人なら、特別代理人の選任がさらに必要になる
- 相続税の申告期限は10か月。間に合わないと小規模宅地等の特例や配偶者の税額の軽減が使えない
- 遺産分割が終わっても、後見は本人が亡くなるまで続く
【元気なうちにできる対策】
- 判断能力があるうちに、任意後見契約で自分の代理人を決めておく
- 誰に何を任せたいのかを、本人の言葉で書き残しておく
- 口座や保険、不動産、ネット上の資産を一覧にしておく
- 2026年の民法改正の内容を知り、施行までの数年間をどう過ごすか決めておく
財産の情報が家族に伝わっていなければ、後見人が誰になっても手続きは止まります。
デジタル終活サービスを使えば、口座やネット上の資産、任せたい相手の希望を、ひとつにまとめて残しておくことができます。
相続で困るのは、亡くなった本人よりも残された家族です。
判断能力がある元気なうちに、資産について、ご家族と話し合う場を作ってみてはいかがでしょうか。
この記事の監修者

yusuke/介護福祉士・FP3級
介護福祉士として15年以上、介護現場でご利用者やご家族と接してきました。現在は個人事業主として介護タクシーを運営。介護の現場で見てきた「本当に困ること」をもとに、終活・介護・お金の話を、わかりやすくお伝えしています。
出典
- 最高裁判所事務総局家庭局「成年後見関係事件の概況——令和7年1月〜12月」 https://www.courts.go.jp/assets/20260316koukengaikyou-r7.pdf
- 法務省「民法等の一部を改正する法律」(成年後見及び遺言の制度の見直し)について https://www.moj.go.jp/MINJI/minji07_00410.html
- 法務省民事局「民法等の一部を改正する法律(令和8年法律第45号)の概要」 https://www.moj.go.jp/content/001465481.pdf
- 国税庁「No.4205 相続税の申告と納税」 https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/sozoku/4205.htm
- 国税庁「No.4152 相続税の計算」 https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/sozoku/4152.htm
- 国税庁「No.4208 相続財産が分割されていないときの申告」 https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/sozoku/4208.htm
- 国税庁「B1-5 相続税の申告書の提出期限から3年以内に分割する旨の届出手続」 https://www.nta.go.jp/taxes/tetsuzuki/shinsei/annai/sozoku-zoyo/annai/2327.htm
- 民法(e-Gov法令検索)第3条の2・第826条・第859条・第860条 https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089


